藤原行成の書と清少納言
2022.10.31よしなしごと
かな文字が好きなので、小筆で和歌の臨書をしています。
気がつくと、伝藤原行成の書をよく書いています。
彼は、書の三蹟といわれている、小野道風、藤原佐理(ふじわらのすけまさ)と並ぶ
三蹟のひとりです。
ちなみに、よくいわれる書の三筆は、空海、嵯峨天皇、橘逸勢(たちばなのはやなり)です。
行成は、小野道風の書が好きだったらしく、道風のうつくしい行書の影響か、流れが
とてもやわらかく優美で気品のある印象をもちました。
なぞってみると、丁寧で、おちついた人柄のようにも思います。
行成は、あの一条天皇(皇后は定子で、女房のひとりには清少納言)に仕えていたので、清少納言とも仲よく話しこむことがあったそうです。
遅くなってしまったある日、清少納言に、鶏が鳴くのに催促され、戻ってきてしまったと手紙を送りました。
清少納言から、まだ夜更けなのに、鳴いたのは函谷関の鶏かと返事があります。
これは、中国の戦国時代、鶏の鳴きまねをさせて、函谷関の関を開けさせ、難を逃れたという故事からきています。
清少納言のこういうウイット好きなところが、批判されたりもしますが、ちゃんと表現できるところが、話してても、
たのしい魅力ある女性だと、いまのわたしたちは、微笑ましく思います。
徒然草に見る幼な子のうた
2022.10.25よしなしごと
つれづれなるままに 日くらし 硯にむかひて 心に移りゆくよしなし事を、、ではじまる徒然草は、全部で243段あります。
男性について、姿かたちの美しいのがいい、とはいえ、中身がなくては、つまらない。
だからと、学ばなければならないものを書きつらねたあと、男は下戸ならぬこそよけれ、と書き加えています。
女性については、家の中をきちんとおさめる女はつまらない、また子供ができるとふたりで可愛がっているのだろうと思うと、目も当てられない、と言いたい放題。
どんな女も、明け暮れ見ているとつまらなくなる。
女もそうであろう。
時に通い、泊まるというのが、男女の仲が長続きするだろうと結んでいます。
友にしたくないのは、若き人、からだの強い人、欲深い人、嘘をつく人、酒乱の人、
病いのない人、身分の高い人と七つあげています。
反対にいい友として、物くるる友、医者、智恵ある友と三つ述べ、はじめに、物くるる友と書いているのが、とても即物的で、笑ってしまいます。
幼い子に対しては、おどしたり、こわがらせたり、幼な心はどんなに悲しくつらいだろう、悩ませておもしろがるのは、慈悲の心とはいえないと、やさしい心持ちを表現しています。
小さい人のかわいいおはなしも添えられています。
後嵯峨天皇の子、延政門院が幼いころ、父の御所へ参上する人に言づけた、という歌です。
ふたつ文字、牛の角(つの)文字、直(す)ぐな文字、歪(ゆが)み文字とぞ君は覚ゆる
ふたつ文字は、上下にふたつの「こ」、角のかたちの「い」、まっすぐな文字は「し」、歪み文字は「く」、あわせると「こいしく」になります。
延政門院に仕えていた一条という女房と兼好は歌を詠みかわしていたので、この可愛らしいエピソードもこの女房から聞き、記したのかもわかりません。
ああだこうだと好き放題に書かれてると思っていた徒然草ですが、後半に、こんな
こころたのしくなるようなお話しも書き記し、最後の243段には、兼好が八才のとき
仏のことを父にこどもらしく問うたことがたのしく書かれています。
兼好の、ものを見、書き綴った内容が、軽くほぐれていく流れを見ていくようでした。
紀貫之が仮名で日記を書いた訳
2022.10.8よしなしごと
「土佐日記」は、漢字で文を綴っていた時代に、「男もするという日記を女になった
つもりで書く」と、土佐から都までの55日の旅を書いた作品です。
何十年もかかって、ようやく土佐の国司になれた貫之は、大勢の家の子郎等とともに
旅立ち、その中には、遅くにできた貫之の小さな女の子も、連れ立っての旅でした。
土佐での4年間の任期を終え、また、大勢の人とともに、船旅で都をめざします。
ただ、一緒だった小さな女の子は、いず、何度もそのかなしみを、綴っていきます。
旅の途中、歌を詠むおとなに交じって、利発な女の子が歌を返すのを見、貫之の妻も
女の子を思い、歌を詠みます。
その姿に、貫之はかなしみを重ねます。
難儀しつつも、都へ近づくをよろこびつつ上がる
京より下りし時に、子どもなかりき
「なかりしも ありつつ帰る人の子を ありしもなくて 来るが悲しさ」
貫之はたぶん、漢文ではこの悲しみやこまやかなこころのうちを表現できないと思い、
仮名で書くことを、えらんだのかもしれません。
都の自分の屋敷に着いたとき、大変な荒廃ぶりに驚きます。
隣とのあいだには、中垣があり、一軒の家のようだから、面倒をみますと預かってくれたはずなのに、そして、何かにつけ、届けものをしたではないか、と、いまもかわらない人の心持ちのグチに、笑ってしまいました。
それでも貫之は家の者に、言います。
となりの悪口を大きな声で言ってはいけない、腹が立つが、礼だけはしようと思う、と。
「この家にて 生まれし女子(をむなご)のもろともに 帰らねば いかがは悲しき」
「生(む)まれしも 帰らぬものを わが宿に 小松のあるを見るが悲しさ」
あの子は帰らないけれど、新しい小さな松が庭に生いたっていた
で日記は閉じられます。
悲しみを繰り返し、書き記せたのは、仮名だったのでしょう。