紀貫之が仮名で日記を書いた訳

2022.10.8よしなしごと

「土佐日記」は、漢字で文を綴っていた時代に、「男もするという日記を女になった
つもりで書く」と、土佐から都までの55日の旅を書いた作品です。

何十年もかかって、ようやく土佐の国司になれた貫之は、大勢の家の子郎等とともに
旅立ち、その中には、遅くにできた貫之の小さな女の子も、連れ立っての旅でした。

土佐での4年間の任期を終え、また、大勢の人とともに、船旅で都をめざします。
ただ、一緒だった小さな女の子は、いず、何度もそのかなしみを、綴っていきます。

旅の途中、歌を詠むおとなに交じって、利発な女の子が歌を返すのを見、貫之の妻も
女の子を思い、歌を詠みます。
その姿に、貫之はかなしみを重ねます。

難儀しつつも、都へ近づくをよろこびつつ上がる
京より下りし時に、子どもなかりき
「なかりしも ありつつ帰る人の子を ありしもなくて 来るが悲しさ」

貫之はたぶん、漢文ではこの悲しみやこまやかなこころのうちを表現できないと思い、
仮名で書くことを、えらんだのかもしれません。

都の自分の屋敷に着いたとき、大変な荒廃ぶりに驚きます。

隣とのあいだには、中垣があり、一軒の家のようだから、面倒をみますと預かってくれたはずなのに、そして、何かにつけ、届けものをしたではないか、と、いまもかわらない人の心持ちのグチに、笑ってしまいました。

それでも貫之は家の者に、言います。
となりの悪口を大きな声で言ってはいけない、腹が立つが、礼だけはしようと思う、と。

「この家にて 生まれし女子(をむなご)のもろともに 帰らねば いかがは悲しき」

「生(む)まれしも 帰らぬものを わが宿に 小松のあるを見るが悲しさ」

あの子は帰らないけれど、新しい小さな松が庭に生いたっていた
で日記は閉じられます。

悲しみを繰り返し、書き記せたのは、仮名だったのでしょう。

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