京都祇園祭の結び

2023.7.18よしなしごと

昨日、7月17日は、京都祇園祭の前祭でした。

前祭のときに、京都に出かけ、鉾や飾りを真近で見たことがあります。
織物もすばらしく、いろんな飾りが近くで見れたのは、とてもラッキーでした。

25メートルもあるという、長刀鉾は、神の依代だそうで、この鉾に神をお迎えする
といいます。
これは、車輪も大きく、お稚児さんが乗り、この中にはもちろん、屋根の上にも、
たくさんの人が乗ります。

結びの研究をされている関根みゆきさんの文章を読むと、軋むであろうこの山鉾には、釘を使うと全部とんでいくそうなので、縄を結んでいくことで、力を分散させている
そうです。

祇園祭は、疫病退散のお祭りなので、疫病を起こす神を集めて、お囃子や美しい飾り、織物でもてなす、これが先払いとなります。

巡行してもどってくると、その神々がとび散らないように、すぐに解体して、封じ込めます。

巡行のあとに、かならず、壊さないといけないのにもかかわらず、縄は、美しく結ぶ。
結んでいるので、元にもどしやすく、毎年、結びなおせる。
まさしく、解くまでが、結びでした。

後祭は、7月24日です。

総角(あげまき)結びと封じ結び

2023.7.17よしなしごと

大相撲の夏場所がはじまり、すでに中日も超えました。
三関脇が、同時に大関になれるか、と勝負もたのしみですが、土俵の四隅の飾りひもがとても気になり、調べてみました。

これは、総角結びといい、元々は、男性の角髪(みずら)を型どったもので、鎧の背の飾りにも、そして古くは高松塚古墳の壁画にも見られる結びだそうです。

そういえば、結び方を習ったのは、お茶のおけいこのときで、茶入れの袋の
仕覆(しふく)結びでした。

意味など知らず、単に所作のひとつだと思い、おけいこしてましたが、それは、
茶入れに毒を盛られないようにするためだったのです。

戦国時代、茶室は密談の場所でもありました。
藩の茶道役を司っていた人は、主君を毒から守るために、自分だけが知っている結び方で結び、毒を盛ったとしても、元通りには結べないようにしたのです。

まさしく、鍵の役目でもあったのです。
これを封じ結びというそうです。

封じ結びは、文箱にも使われていたようで、大切な手紙を見られてはいけないという
ことで、ここでも鍵の役目を果たしていました。

ただこれは、口伝だそうで、いくつ、いまに残っているのでしょう。

総角結びが気に入ったので、いろんなひもで作り、お部屋に飾りたいと思いました。

武野紹鴎と千利休

2023.7.15よしなしごと

茶懐石料理、「辻留(つじとめ)」の二代目のご主人、辻嘉一(つじかいち)さんは、たくさん本を残されています、

お茶事のことも、詳しく書いてくださっていますが、その中で、利休が武野紹鴎(たけの じょうおう) に会ったときの話しが、特に印象深く残っています。

お茶や刃物で有名な堺市には、仁徳天皇陵のそばに大仙公園という、とても広い公園があります。
その中の一角に、ひっそりと紹鴎の像があります。

利休が16才のとき、紹鴎に弟子入りを願いますが、4〜5回、断られてしまいます。
利休は、羽織のような十徳(じっとく)をまとい、礼を尽くし、ようやく、弟子入りが許されました。

紹鴎は、釜の横に、青竹の蓋置きを置きたいという思いがありながら、弟子の利休に、良し悪しを訊ねる訳にもいかず、黙って、そっと置いてみると、利休がすばらしいという表情をしたというところから、いまも青竹の蓋置きが使われているというお話しは、新鮮でした。

利休が侘びとは何か、を問われたときの手紙が残っており、そこには、「正直に、慎み深く、おごらぬ様を侘びという」と、利休のことばが記されていたようです。

自ら歌を詠むことはしなかった利休ですが、ただ、師の紹鴎は、三條西実隆(さんじょう にしさねたか)に和歌を学んでいました。
実隆は、歌はもちろん、書、古典にも造詣が深く、源氏物語の全54帖を書写したひとでもありました。

紹鴎が実隆の元で、「詠歌大概序(えいがたいがいじょ)」 という、藤原定家が著した歌論を学んでいるときに、茶の湯の極意を悟ったと伝えられています。

その実隆の歌、「花をのみ 待つらむ人に 山里の 雪間の草の 春を見せばや」
雪間の草の春を見る つまり ここまで物が見えることが大切という、利休は、これが
お茶のこころだと述べています。