日本へ伝わった茶と高山寺
2018.11.1よしなしごと
急に寒くなり、散歩道の木も紅葉が進んできました。
紅葉の美しいスポットのひとつとして、京都の中心から少し離れますが、高山寺という古寺があります。
「京都、栂ノ尾高山寺、、」と「女ひとり」という歌に出てくるお寺です。
JR京都駅からバスが出ていて、一時間弱程乗りますが、降りると、空気感がまったく違って、すぐに日常から離れられます。
高山寺は「阿留辺幾夜宇和(あるべきやうわ)」という言葉で有名な、明恵上人ゆかりのお寺です。
国宝の石水院には、あの有名な鳥獣人物戯画があります。展示は複製ですが、ゆっくりと見ることができます。
そしてここは茶と、とても関係の深いところでもあります。
日本でお茶の歴史をたどると、729年天平元年に、聖武天皇が全国から僧を呼び、行茶の儀式を行ったと、「奥義抄」に記されています。
805年には、最澄が唐から茶の種を持ち帰り、翌年には、空海が茶の種と製茶法を教えたと伝わっています。
1191年、栄西(1141~1215)が宋から茶の種を持ち帰り、この茶の種を明恵上人に贈ったところ、それを栂ノ尾に植え、宇治をはじめ、その他の土地にも植えました。
そういう経緯から、ここは日本最古の茶園でもあり、明恵上人は茶祖ともいわれています。
栄西ですが、1214年、鎌倉幕府の三代将軍、源実朝(1192~1219)に「喫茶養生記」を書いて献上し、茶の飲用を勧めました。
茶の効用、茶の採取、製造法にいたるまで、詳しく記述し、病弱であった実朝に、茶で養生するようにすすめたものです。
実朝は神経衰弱だったので、茶は飲むと神経が鎮まる妙薬であり、薬として飲むように献納したわけです。
石水院に入ると、愛らしい善財童子の木像が迎えてくれます。
近くの神護寺、西明寺も素敵なので、散策されるといいと思います。
ボストンティーパーティ(ボストン茶会事件)
2018.10.31紅茶
アメリカも、独立以前は、イギリスが運んでくる紅茶を飲んでいたのですが、人々は、高い税金のかかったイギリスの紅茶よりも、オランダの安い密輸の紅茶を買っていました。
そのために、イギリスでは紅茶が売れず、東インド会社は多くの在庫を抱えることになってしまいました。
1773年、イギリス政府は、Tea Act(茶条令)を発布し、密輸の安い紅茶ではなく、イギリス東インド会社の紅茶を独占的に売りつけようとしました。
ところが、こうした強引なやり方は、アメリカ市民を怒らせることになってしまいます。
12月16日、イギリス東インド会社の帆船3隻は、紅茶を積んで、ボストン港に停泊していました。
イギリス政府に対する不満がピークに達していたボストン市民は、すでに荷揚げが終わった紅茶に対しては、その倉庫を閉鎖してしまいました。
そしてイギリスの茶条令に反対するボストン市民の一団が、サミュエル・アダムズに率いられ、アメリカインディアンに変装し、「自由の子」と名乗り、この船に乗り込み、342箱の紅茶、15,000ポンドを海に投げいれてしまいました。
これが、ボストン・ティー・パーティーです。
この事件に対し、イギリス政府は報復措置、つまり、ボストン港の閉鎖等の懲罰政策を取ったので、結束した人々は、イギリス本国の措置を非難し、各地でイギリスの紅茶を飲まない運動が起こりました。
そしてそれは紅茶のみに限らず、イギリス商品の不買運動へとつながり、騒ぎはどんどん大きくなり、結果、アメリカは反旗をひるがえし、独立への道を進むことになったのです。
フェルメールと福岡伸一
2018.10.20よしなしごと
いま、東京の上野の森美術舘でフェルメールの展覧会が開催されていますね。
生物学者の福岡伸一教授が、とてもフェルメールがお好きで、たくさん文章を書かれています。
福岡先生が、子供の頃に買ってもらった顕微鏡を作った人が、オランダのレーウェンフックという人で、1632年10月24日に、デルフト焼きで有名な地に生まれています。フェルメールも1632年に4日違いに、同じ地で生まれています。
同じ教会で洗礼も受けています。
レーウェンフックは顕微鏡のレンズの中に光を見極めようとしました。
フェルメールは、左からの光に、正確に遠近法を描きだしました。
そんな光を意識した人がもうひとり、同じ年に生まれています。
哲学者のスピノザです。
レンズに興味を持ったスピノザは、レンズ職人でありつつ、哲学を研究していました。
1632年は、光がポイントのマジックイヤーと言えるかもしれません。
フェルメールとレーウェンフックとの交流を示す手がかりは、残されていませんが、フェルメールが亡くなった時、レーウェンフックが彼の遺産の管財人をしたという記録は残っているそうです。
フェルメールの絵には、常に動きがあるということ、手紙を読む女性の目線や楽器を奏でる手が止まったとき、フェルメールはそこに至る時間とそこからはじまる時間を絵のなかに、表現しようとしました。
福岡先生のフェルメールに対する思いも持ちながら、展覧会を楽しみたいと思います。
そんな1600年代は、ヨーロッパにお茶が伝わった時代でもありました。
1610年には、オランダ人がマカオと平戸で緑茶を買い、ジャワのバンタム経由で、ハーグに送ったという記録があります。
そしてそこから、オランダでお茶を飲むことが、広まっていったのです。