ボストンティーパーティ(ボストン茶会事件)

2018.10.31紅茶

アメリカも、独立以前は、イギリスが運んでくる紅茶を飲んでいたのですが、人々は、高い税金のかかったイギリスの紅茶よりも、オランダの安い密輸の紅茶を買っていました。
そのために、イギリスでは紅茶が売れず、東インド会社は多くの在庫を抱えることになってしまいました。

1773年、イギリス政府は、Tea Act(茶条令)を発布し、密輸の安い紅茶ではなく、イギリス東インド会社の紅茶を独占的に売りつけようとしました。
ところが、こうした強引なやり方は、アメリカ市民を怒らせることになってしまいます。

12月16日、イギリス東インド会社の帆船3隻は、紅茶を積んで、ボストン港に停泊していました。
イギリス政府に対する不満がピークに達していたボストン市民は、すでに荷揚げが終わった紅茶に対しては、その倉庫を閉鎖してしまいました。
そしてイギリスの茶条令に反対するボストン市民の一団が、サミュエル・アダムズに率いられ、アメリカインディアンに変装し、「自由の子」と名乗り、この船に乗り込み、342箱の紅茶、15,000ポンドを海に投げいれてしまいました。
これが、ボストン・ティー・パーティーです。

この事件に対し、イギリス政府は報復措置、つまり、ボストン港の閉鎖等の懲罰政策を取ったので、結束した人々は、イギリス本国の措置を非難し、各地でイギリスの紅茶を飲まない運動が起こりました。
そしてそれは紅茶のみに限らず、イギリス商品の不買運動へとつながり、騒ぎはどんどん大きくなり、結果、アメリカは反旗をひるがえし、独立への道を進むことになったのです。

Next

Prev