カトリーヌ・ド・メディシスがフランスに持ち込んだもの

2018.12.3お菓子

メディチ家は、15世紀から18世紀にかけて、フィレンツェを中心に栄えた商人の家系でした。
もともとは、薬を扱っていましたが、銀行業で財を成し、16世紀には、フィレンツェだけではなく、トスカーナ大公国の君主にもなりました。
カトリーヌは両親が早くに亡くなったので、修道院で生活を送り、そこでは礼儀作法と教養を身につけることができ、1533年、14才の時に、フランスの王、後のアンリ2世と結婚することになりました。

中世末からルネッサンスにかけては、イタリアでは特にお菓子類、果物のパテやジャム、砂糖漬けのフルーツやヌガーを進化させていきました。
イタリアでは、砂糖菓子が早くから、非常に発達していたのです。
カトリーヌの結婚の時には、マカロンやフランジパーヌなどのプチフールが伝わりました。

結婚の食卓には、ノルウェーのフィヨルドから持ってきた氷を使って、木イチゴ、オレンジ、レモン、いちじく、レーズン、アーモンドやピスタチオを加えたシャーベットが並び、居並ぶフランスの貴族を驚かせたという話しが残っています。
そこには、サバイヨン、フィナンシェも加わり、銀のフォークも並べられました。
そして、テーブルマナー、香水やパラソルまでも、カトリーヌがもたらしました。

もうひとつ、カトリーヌがフランスに持ち込んだ中に、ダンスがあります。
当時のイタリアでは、バスダンスがよく踊られていました。
フランスに入ったバレエは、1589年から1610年にかけて、800以上のバレエが作られました。

現代では、バレエは鑑賞するだけですが、当時は大掛かりなバレエ劇、「バレエ・ド・クール(宮廷バレエ)」があり、これは参加型のバレエでした。
後に、ルイ14世は、1653年に「夜のバレエ」の中で、太陽神アポロンを踊りました。

舞踏会も多く、それは座る席や踊りの順序も、身分により厳しく決められており、そんな注視の中で踊られるダンスは、貴族同士の批評にさらされることになっていきました。
つまり権力を誇示する場であり、その素養を評価される場ともなっていったのです。

中国から日本へ伝わった茶

2018.11.11紅茶

唐の文人で、陸羽(りくう)(733~804)という人がいますが、彼は、ふだんから茶をたしなんでいたらしく、「茶経」という本を著しました。
これは、茶の栽培や飲み方、茶の効用を3巻にまとめたもので、現代にも伝わっています。
「茶経」では、茶は薬用としてあります。

日本では、729年の天平元年に、聖武天皇が全国から僧を呼び、行茶の儀式を行ったと、「奥義抄」に残されています。
805年には最澄が、そして翌年の806年には、空海が茶の種と製茶法を伝えました。

1192年、栄西(1141~1215)が、宋から茶の種を持ち帰り、京都の栂ノ尾に植え、広めました。
その後、栄西は、鎌倉幕府の3代将軍実朝(1192~1219)にお茶を勧めます。
実朝が神経衰弱だったので、お茶は、飲むと神経が鎮まる妙薬なので、茶で養生するようにと勧めたのです。

また、「喫茶養生記」という本を書いて、献上しました。
この中で栄西は、茶の効用を説き、茶の栽培や摘み方、製茶、茶道具、飲み方にいたるまで詳しく述べました。

栄西は鎌倉時代の天台僧でしたが、中国に行くと密教より禅宗がさかんだったので、臨済宗をおさめて帰国しました。
禅が広まると、禅宗式のお茶の飲み方の儀式や作法が整っていきました。

村田珠光(1423~1502)は、室町時代中期の人で、わび茶の祖といわれています。
一休禅師の弟子となり、禅家の喫茶法を教わり、珠光の貴人点前は諸大名に広まっていきました。
禅宗が武家の信頼を得たので、武士は茶を大切にしたのです。
また珠光は、8代将軍足利義政の茶の師にもなり、また弟子の利休は、そのわび茶を完成させました。

武野紹鷗(たけの じょうおう)(1502~1555)は村田珠光の門下で珠光から紹鷗、そして利休に到って、茶はきわまりました。
大阪堺市の仁徳天皇陵のそばには、大仙公園という大きな公園があります。
その中に博物館があり、その前には、村野紹鷗の像がありました。
堺市は、利休ゆかりの町であり、利休が村野紹鷗に茶を教わった町でもありました。

古典の日と雅楽

2018.11.5よしなしごと

2008年11月1日に、「源氏物語」千年紀を記念して、「古典の日」が設けられました。
その日にちなみ、雅楽と平安時代やその文学のお話しがありました。

平安時代に入ると、詩歌管弦は習得すべき教養となり、朝廷での儀礼では、演奏されることも多く、管弦(雅楽)は、天皇や貴族にとり帝王学のひとつとして捉えられていました。
古代では和琴が、そして平安時代では笛が、平安後半から鎌倉にかけては琵琶が、そして室町時代は笙が、皇位の象徴として扱われました。

村上天皇(在位946~967)が966年10月7日に催された舞楽が、源氏物語の「紅葉賀(もみじのが)」でのモデルになったといわれています。
桐壺帝の祝宴の準備のために、左大臣家の頭中将と源氏が、「青海波(せいがいは)」を帝と御簾の向こうにいる藤壺宮の前で、美しく舞ったと描かれています。

また、枕草子の218段には、清少納言がなにを「いとをかし」と感じているのかという文章があります。

笛は横笛、いみじうをかし
笙の笛は、月のあかきに黒真などにて 聞きえたる いとをかし
篳篥は いとかしがましく 秋の蟲をいはば 轡蟲(くつわむし)などの心地して うたてけぢかく 聞かまほしからず
秋の蟲をこれにたとえるならば 不快で そば近く聞く気はしない

篳篥の音色は、人の声、つまり地上の音と表現されますが、平安時代には、大篳篥もあったそうで、雅楽の演奏者の間では、清少納言が「いとをかし」と指していたのは、大篳篥ではないかといわれています。