中国から日本へ伝わった茶

2018.11.11紅茶

唐の文人で、陸羽(りくう)(733~804)という人がいますが、彼は、ふだんから茶をたしなんでいたらしく、「茶経」という本を著しました。
これは、茶の栽培や飲み方、茶の効用を3巻にまとめたもので、現代にも伝わっています。
「茶経」では、茶は薬用としてあります。

日本では、729年の天平元年に、聖武天皇が全国から僧を呼び、行茶の儀式を行ったと、「奥義抄」に残されています。
805年には最澄が、そして翌年の806年には、空海が茶の種と製茶法を伝えました。

1192年、栄西(1141~1215)が、宋から茶の種を持ち帰り、京都の栂ノ尾に植え、広めました。
その後、栄西は、鎌倉幕府の3代将軍実朝(1192~1219)にお茶を勧めます。
実朝が神経衰弱だったので、お茶は、飲むと神経が鎮まる妙薬なので、茶で養生するようにと勧めたのです。

また、「喫茶養生記」という本を書いて、献上しました。
この中で栄西は、茶の効用を説き、茶の栽培や摘み方、製茶、茶道具、飲み方にいたるまで詳しく述べました。

栄西は鎌倉時代の天台僧でしたが、中国に行くと密教より禅宗がさかんだったので、臨済宗をおさめて帰国しました。
禅が広まると、禅宗式のお茶の飲み方の儀式や作法が整っていきました。

村田珠光(1423~1502)は、室町時代中期の人で、わび茶の祖といわれています。
一休禅師の弟子となり、禅家の喫茶法を教わり、珠光の貴人点前は諸大名に広まっていきました。
禅宗が武家の信頼を得たので、武士は茶を大切にしたのです。
また珠光は、8代将軍足利義政の茶の師にもなり、また弟子の利休は、そのわび茶を完成させました。

武野紹鷗(たけの じょうおう)(1502~1555)は村田珠光の門下で珠光から紹鷗、そして利休に到って、茶はきわまりました。
大阪堺市の仁徳天皇陵のそばには、大仙公園という大きな公園があります。
その中に博物館があり、その前には、村野紹鷗の像がありました。
堺市は、利休ゆかりの町であり、利休が村野紹鷗に茶を教わった町でもありました。

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