武野紹鴎と千利休

2023.7.15よしなしごと

茶懐石料理、「辻留(つじとめ)」の二代目のご主人、辻嘉一(つじかいち)さんは、たくさん本を残されています、

お茶事のことも、詳しく書いてくださっていますが、その中で、利休が武野紹鴎(たけの じょうおう) に会ったときの話しが、特に印象深く残っています。

お茶や刃物で有名な堺市には、仁徳天皇陵のそばに大仙公園という、とても広い公園があります。
その中の一角に、ひっそりと紹鴎の像があります。

利休が16才のとき、紹鴎に弟子入りを願いますが、4〜5回、断られてしまいます。
利休は、羽織のような十徳(じっとく)をまとい、礼を尽くし、ようやく、弟子入りが許されました。

紹鴎は、釜の横に、青竹の蓋置きを置きたいという思いがありながら、弟子の利休に、良し悪しを訊ねる訳にもいかず、黙って、そっと置いてみると、利休がすばらしいという表情をしたというところから、いまも青竹の蓋置きが使われているというお話しは、新鮮でした。

利休が侘びとは何か、を問われたときの手紙が残っており、そこには、「正直に、慎み深く、おごらぬ様を侘びという」と、利休のことばが記されていたようです。

自ら歌を詠むことはしなかった利休ですが、ただ、師の紹鴎は、三條西実隆(さんじょう にしさねたか)に和歌を学んでいました。
実隆は、歌はもちろん、書、古典にも造詣が深く、源氏物語の全54帖を書写したひとでもありました。

紹鴎が実隆の元で、「詠歌大概序(えいがたいがいじょ)」 という、藤原定家が著した歌論を学んでいるときに、茶の湯の極意を悟ったと伝えられています。

その実隆の歌、「花をのみ 待つらむ人に 山里の 雪間の草の 春を見せばや」
雪間の草の春を見る つまり ここまで物が見えることが大切という、利休は、これが
お茶のこころだと述べています。

Next

Prev