イギリスの紅茶、フランスのコーヒー

2018.4.3紅茶

イギリスでは、紅茶が広がっていったこと、フランスでは、紅茶ではなく、コーヒーが広まっていったこと、その、そもそもの理由は、どこにあったのでしょう。
それは、七年戦争(1756~1763)に端を発していると言われています。

王位継承権は、男性にあり、神聖ローマ皇帝のカール6世は、生まれた男児が夭折したため、長女であるマリア・テレジアを即位させることを、周辺の国々に根回ししました。
ところが、カール6世の死後、1740年、ハプスブルク家王位に就いたマリア・テレジアに対して、王位や領土の継承権をめぐり、周辺諸国が反対し、いわゆるオーストリア継承戦争が始まりました。

列国からマリア・テレジアの王位や領土継承の承認を取り付けた代償として、オーストリアは、プロイセンに領土のシュレジエンを割譲しますが、これがプロイセンとオーストリアの対立を深める原因となっていきます。

1756年に始まった7年戦争は、オーストリアがフランス、ロシアの援助を得て、プロイセンやその同盟国であるイギリスと戦った戦争でした。
オーストリア継承戦争で、領地シュレジエンを奪われたマリア・テレジアが失地回復を図った、言わば雪辱戦でしたが、結局、失敗。

その事の成り行きのひとつに、植民地争奪をめぐって行われた、イギリスとフランスの戦いがありました。
植民地の支配権を巡り、英仏の植民地戦争はスペイン継承戦争やオーストリア継承戦争の重要な部分を占め、七年戦争では、イギリスは決定的に勝利を収めます。

フランスはイギリスとの植民地争奪に敗れ、カナダやインドの権利や利益を失ってしまいました。
その結果、インドやアジアでしか収穫できない紅茶は、フランスに入ってこなくなってしまったのです。
その代わりに、フランス領の西インド諸島で、プランテーション開発が進んだコーヒーは、フランスに大量に輸入され、カフェ文化が発達することになります。

一方、イギリスは、コーヒー植民地が少なく、ロンドンで、始まったコーヒーハウスも、衰退していきます。
反対に紅茶は、供給源が豊かであったこと、そして、イギリス領の西インド諸島で取れる砂糖と結びつき、イギリスに定着していったのです。

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