マフィンとアールグレイ
2019.6.17お菓子
おやつにマフィンを作りました。
バターも甘みも少なくしたレシピです。
無塩バター 30グラム
グラニュー糖 30グラム
たまご 1個
薄力粉 120グラム
ベーキングパウダー 小さじ1
ミルク 大さじ2
バナナ1本か、レーズン、クルミ、アーモンドなど 30グラム
無塩バターとたまごは、室温におきます。
薄力粉とベーキングパウダーは、合わせてふるっておきます。
レーズンを使うときは、お湯に漬けて、汚れをとります。
ボウルにやわらかくなったバターを入れ、泡だて器で空気を含ませます。
砂糖は、2回に分けて、加え、混ぜ合わせていきます。
ほぐしたたまごは、少しずつ加えながら、よく混ぜ合わせていきます。
ふるった粉は、こねないように、混ぜ合わせます。
バナナやレーズンなど加え、ミルクを加え、やわらかさを整えます。
型に入れ、180度のオーブンで、20分、焼きます。
シンプルに焼くと、甘みが少なく感じるかもわかりませんが、バナナやレーズンを加えて、ちょうど良い甘さにしました。
クリッパー(Clipper) のアールグレイと合わせてみると、紅茶のほんのりとした香りとシンプルなマフィンが、おいしくなりました。
アールグレイは、ブラックがおすすめです。
マドレーヌの由来とレシピ
2019.2.14お菓子
スタニスラス・レクチンスキーという人がいました。
彼は、ルイ15世の妃、マリー・レクチンスカ(1703~1768)の父でしたが、娘のマリーの、ルイ15世を囲む、ポンパドゥール夫人やデュ・バリー伯爵夫人との人間関係を心配し、ルイ15世のこころがマリーから離れないように、グルメだった父、スタニスラスが、おいしいものをマリーのもとへ届けさせていました。
ある日、父、スタニスラスの宮廷のお菓子職人が、仲間とのトラブルで辞めてしまい、困っていたところ、若い召使のマドレーヌが急遽作ったのが、このお菓子でした。
スタニスラスは、このお菓子を大変気に入り、マドレーヌと名付け、マリーにも届けさせました。
「ロカイユ」と呼ばれるロココ様式は、ルイ15世のフランスからヨーロッパに広まって行ったスタイルでした。
食卓の世界では、貝殻やぶどうの模様は、正式の飾りと考えられています。
貝殻は、ヴィーナスの誕生を思わせる縁起の良いものと捉えられていたのです。
マドレーヌは、「4同割」という4つの材料ーバター、砂糖、たまご、小麦粉ーが同量のお菓子です。
バター 100g グラニュー糖 100g たまご 2個(Mサイズの白身は30g、黄身は20g) 薄力粉 100g ベーキングパウダー 1.5g(小さじ1/4)
たまごをときほぐし、砂糖を加えます。(湯せんにかけて、ちゃんとお砂糖をとかします)
ふるった薄力粉とベーキングパウダーを加えます。
溶かしバターは、3~4回に分けて加えていきます。
室温で一時間休ませます。
休ませないとベーキングパウダーの効力が弱く 真ん中がふくらむ形になりません。
170度のオーブンで、15分から20分焼きます。
出来上がってそのままにしておくと、乾燥してしまうので、荒熱がとれれば、ビニールの袋に入れておくとしっとりとします。
カトリーヌ・ド・メディシスがフランスに持ち込んだもの
2018.12.3お菓子
メディチ家は、15世紀から18世紀にかけて、フィレンツェを中心に栄えた商人の家系でした。
もともとは、薬を扱っていましたが、銀行業で財を成し、16世紀には、フィレンツェだけではなく、トスカーナ大公国の君主にもなりました。
カトリーヌは両親が早くに亡くなったので、修道院で生活を送り、そこでは礼儀作法と教養を身につけることができ、1533年、14才の時に、フランスの王、後のアンリ2世と結婚することになりました。
中世末からルネッサンスにかけては、イタリアでは特にお菓子類、果物のパテやジャム、砂糖漬けのフルーツやヌガーを進化させていきました。
イタリアでは、砂糖菓子が早くから、非常に発達していたのです。
カトリーヌの結婚の時には、マカロンやフランジパーヌなどのプチフールが伝わりました。
結婚の食卓には、ノルウェーのフィヨルドから持ってきた氷を使って、木イチゴ、オレンジ、レモン、いちじく、レーズン、アーモンドやピスタチオを加えたシャーベットが並び、居並ぶフランスの貴族を驚かせたという話しが残っています。
そこには、サバイヨン、フィナンシェも加わり、銀のフォークも並べられました。
そして、テーブルマナー、香水やパラソルまでも、カトリーヌがもたらしました。
もうひとつ、カトリーヌがフランスに持ち込んだ中に、ダンスがあります。
当時のイタリアでは、バスダンスがよく踊られていました。
フランスに入ったバレエは、1589年から1610年にかけて、800以上のバレエが作られました。
現代では、バレエは鑑賞するだけですが、当時は大掛かりなバレエ劇、「バレエ・ド・クール(宮廷バレエ)」があり、これは参加型のバレエでした。
後に、ルイ14世は、1653年に「夜のバレエ」の中で、太陽神アポロンを踊りました。
舞踏会も多く、それは座る席や踊りの順序も、身分により厳しく決められており、そんな注視の中で踊られるダンスは、貴族同士の批評にさらされることになっていきました。
つまり権力を誇示する場であり、その素養を評価される場ともなっていったのです。